2011年4月11日月曜日

被災地支援プロジェクトに参加!

迷ってた。
どうしようかと。
周囲のみなさんが、できることを模索して、支援活動をしている中。

自分には何ができるのか。
…そうだ、絵本がある。
去年、ぼくらが創った絵本。

子どもを授かったことがきっかけで発案した『おむすびウメちゃん』
これなら、すぐにでも、物資として送れる。
外にも迂闊に出られない幼児たちの気持ちが少しでも晴れたらいい。

東京都やNPOに物資の受け入れについて、聞いてみた。
しかしながら、受け入れている物資が限られていた。
すでに受付をやめた団体もいる。

そんな中、いいプロジェクトに出会えた。

わたしたちBookmark Inc.としましては、
このプロジェクトに賛同したいと思います。
783冊の『変身!おむすびウメちゃん』を託します。

▼negau.orgこども支援プロジェクト
http://gift.negau.org/



受付物資は、文房具やお菓子類、本、おもちゃ等。
それを「笑顔袋」としてパッケージングし被災地のこども達に届けてしまう。
という素敵なプロジェクトです。
興味のある方はぜひ、一度チェックしてみてください。


▼このプロジェクトを発足した株式会社ワンパクさん
http://1pac.jp/

▼おむすびウメちゃん
http://twitter.com/omusubu
http://twilog.org/omusubu
絵本:http://amzn.to/hcpnbH

2011年4月4日月曜日

エスケープII




エスケー2(桃井調)では、ない。
先日の続き。

過去に一度、同じような体験をした事がある。
東京にミサイルが墜ちる…ってウワサが流行した。のを憶えているだろうか。
今から10年ほど前の話だ。

たかがウワサだが、僕は必死になったし、その時も行動にでたんだ。
そう、エスケープした。

周囲の友達や知人に声をかけて、ある種、説得を試みた。
危ないから、逃げようと。
得体の知れない話で、人を説得するにはセンスが必要だった。
本気さも。

それでも、耳を傾けたのは3割超えたらいい方だった。
そもそもウワサだったし。
(その時の体験を書籍にまとめたものが『グリングリーンの日』だ。興味が湧いた方がいらしたら、ぜひ読んで頂けたら幸いです。http://amzn.to/fwQYpq)

グリングリーンの日
グリングリーンの日


しかし、今回は、実際に起きた原発事故。
ウワサの比じゃない。
しかも、当時と違ったのは、情報を受け取る手段が、あまりにも多様化していた点だ。

皆それぞれが好んだ媒体から、情報収集できる。ネット、SNS、ニコ動、Ust等々。
テレビと携帯だけじゃないから、拡散も半端じゃない。
信憑性はともかく賛否両論あるけど、個々が判断する材料が増えたことは、よい時代なんじゃないだろうか。
だからこそ、説得も難しいはず。

話を戻すと、原発事故後の一週間後辺りがやばかった。
3号炉の爆発の可能性があったからだ。
当然、爆発したらヤバイが、何よりもそれによる混乱で、脱出できなくなったら…

考えるだけで、動悸が速くなる。
結局のところ、小さな子どもを持つ友達が、
西へ避難した。親戚の家や、実家が西にある人。

ある友達は福島の親族の子どもたちを、迎えにいって自分達が住まう東京へ避難させた。

『西へ』がみんなのテーマだった。

僕らが、那覇空港へ着いたとき、ひとりの女性と知り合った。
その人は妊娠中で、知人はひとりもいないが、怖いので沖縄へとりあえず来たと言っていた。
一方で、守るべきものが子どもだけじゃない場合もある。
親や祖父母、家や会社。

これ以上の災いが起こらないことを願いたいが、
今年は【選択】と【決断】に迫られる年になりそうだ。


(沖縄滞在中に撮影)


2011年4月1日金曜日

エスケープ

1/501 Big Lake jump
1/501 Big Lake jump / Joint Base Elmendorf-Richardson


はぁー。と、長いため息がでる。
毎日、でる。

結婚してからというもの…弱くなった。
子どもができて、さらに弱くなった。

家族ができると、強くなるけど、弱くもなる。

このスカ感、モノ足りない。
なぜなら、今、ひとりぼっちだからだ。
部屋だけじゃない、こころにも、隙間ができちゃって、心底つまらん。

子どもの顔は、毎日変わる。大げさ。と思うかも知れないけど、ほんとだよ。
新しい発見が毎日ある。それを、知らせてくれる妻との会話も毎日の就労後の楽しみだった。それができない今、とても恋しい。

今、子どもと母親が、東から少しでも西へ…と疎開してる。と聞く。
周りの知人だけでも、片手じゃ足りないほどだ。
それだけの世帯が、都心から消えている。

実際、私たち一家は、一度、エスケープした。
地震発生からまもなく1週間が経とうとしていた17日の木曜日の夜、
早めに仕事を切り上げ帰宅すると、まず、次の日の仕事の状況を確認して、
休める人を休ませることにした。

多くの企業がこの1週間、様子をみながら、それぞれの決断をしていた時である。
『自宅待機』の企業も多かったのだ。
その結果、家族会議をして、今から沖縄へ行こうという話になった。

とにかく西へ。がテーマだった。
ネットなどのニュースでは『3号炉の爆発危険性、今日が勝負』的な情報もあり、
とにかく早く非難したい気持ちでいっぱいだった。

僕らは、その夜、航空機のチケットをおさえて、簡単な荷造りで、
夜中のうちに空港へ向かった。空港内で一泊して、朝一の飛行機に乗った。
空港は空いていたけど、飛行機は満席だった。

けれど、それは連休に予定を入れていた人たちだろう。
ぼくらのような非難組は、まだそれほどいなかったと思う。
9時過ぎには、那覇にいた。

なぜ、那覇かといえば、頼れる友達がいたからだ。
事後報告となってしまったけれど、
とても驚かせてしまったけれど、
温かく快諾してくれた。

それにしても、温度差は感じた。
到着してからは、まるで外国のようで、
震災を映すテレビもなければ、それについて話す人も見ない。
もちろん緊迫感もゼロだった。

おかげで連休中は、忘れることができた。
それまで、呼吸するのを忘れるぐらい肩に力の入った日常だっただけに。
結局、終息しない原子炉を気にしつつ、いつもの日常に戻るしかなく、
妻と子どもを残して、東京に戻った。

空港から家まで、駐車場に置き去りの車を運転して帰ったのだが、
節電のせいで街は暗いし、ガソリンが不足しているせいで、
道路がスカスカ。商店も早めに店じまいしている様子でシャッターが閉まり、
歩く人の姿も見えず。おまけにガソリンもギリになってきて心もとない。
東京はまるで、廃墟のようだった。
一気にぬくぬくふわふわしていた脳みそが、ギュッとなった。

それから、数日たって、水道水の騒動があって、
おそらく相当数の母子が、東京から疎開したはず。
ということで、必然的に単身で残るお父さんが関東にはたくさんいるのでは、
ないだろうか。わが家もそのひとつだ。

率直にいうと、さみしい。でも、いつか笑い話になればいいと、誰もが思ってるはずだ。
震災で笑い話にならなかった人を思えば、屁みたいなもんだ、と強がることにする。
父さんたち、かんぱれ。

正直、地震以来、言葉を口から出す力が湧かなかった。 
言葉というか、気力がなかった。
記者会見のUstやネットに張り付いて、ただただ、少しでも早く、
と焦って情報を掻き集めていた。沖縄への逃亡でやっと活気が戻ったけど、
帰ってきたら、また不安が再燃する。

情報過多に疲れもした。
それにしても、友達のつぶやきには、本当に感心した。 
他者を元気づけようとしたり、または自身ができる支援を模索してる。
素晴らしいと思った。

自分は、ただ困惑していた。今も、まだ。不安だ。
でも、ようやく、ほんの少しだけど、考える余裕が出てきた。
皆を見習おうと思う。

いま絵本を被災地に送ろうと考えてるところ。
それにしても、なんかここ数日、プルトニウムが検出されたあたりから、
よく分からない『ちょっと安心してきたよねムード』が漂う。
すごく恐い事だ。

だって、あの原発の処理、会見を聞くところ、見通しが全然たっていない…のに。
自分自身も、こ馴れてきた感があって、実際マズイとオモた。
終息を願う。祈る。


▼ところで友達の皆さんのすてきな救済支援活動をご紹介

Shu-Thang Grafixさん


今谷忠弘(ホテルニュートーキョー)さん

BENICOTOY さん

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