1/501 Big Lake jump / Joint Base Elmendorf-Richardson
はぁー。と、長いため息がでる。
毎日、でる。
結婚してからというもの…弱くなった。
子どもができて、さらに弱くなった。
家族ができると、強くなるけど、弱くもなる。
このスカ感、モノ足りない。
なぜなら、今、ひとりぼっちだからだ。
部屋だけじゃない、こころにも、隙間ができちゃって、 心底つまらん。
子どもの顔は、毎日変わる。大げさ。と思うかも知れないけど、
新しい発見が毎日ある。それを、 知らせてくれる妻との会話も毎日の就労後の楽しみだった。 それができない今、とても恋しい。
今、子どもと母親が、東から少しでも西へ…と疎開してる。と聞く。
それだけの世帯が、都心から消えている。
実際、私たち一家は、一度、エスケープした。
地震発生からまもなく1週間が経とうとしていた17日の木曜日の夜、
早めに仕事を切り上げ帰宅すると、まず、次の日の仕事の状況を確認して、
休める人を休ませることにした。
多くの企業がこの1週間、様子をみながら、それぞれの決断をしていた時である。
『自宅待機』の企業も多かったのだ。
その結果、家族会議をして、今から沖縄へ行こうという話になった。
とにかく西へ。がテーマだった。
ネットなどのニュースでは『3号炉の爆発危険性、今日が勝負』的な情報もあり、
とにかく早く非難したい気持ちでいっぱいだった。
僕らは、その夜、航空機のチケットをおさえて、簡単な荷造りで、
夜中のうちに空港へ向かった。空港内で一泊して、朝一の飛行機に乗った。
空港は空いていたけど、飛行機は満席だった。
けれど、それは連休に予定を入れていた人たちだろう。
ぼくらのような非難組は、まだそれほどいなかったと思う。
9時過ぎには、那覇にいた。
なぜ、那覇かといえば、頼れる友達がいたからだ。
事後報告となってしまったけれど、
とても驚かせてしまったけれど、
温かく快諾してくれた。
それにしても、温度差は感じた。
到着してからは、まるで外国のようで、
震災を映すテレビもなければ、それについて話す人も見ない。
もちろん緊迫感もゼロだった。
おかげで連休中は、忘れることができた。
それまで、呼吸するのを忘れるぐらい肩に力の入った日常だっただけに。
結局、終息しない原子炉を気にしつつ、いつもの日常に戻るしかなく、
妻と子どもを残して、東京に戻った。
空港から家まで、駐車場に置き去りの車を運転して帰ったのだが、
節電のせいで街は暗いし、ガソリンが不足しているせいで、
道路がスカスカ。商店も早めに店じまいしている様子でシャッターが閉まり、
歩く人の姿も見えず。おまけにガソリンもギリになってきて心もとない。
東京はまるで、廃墟のようだった。
一気にぬくぬくふわふわしていた脳みそが、ギュッとなった。
それから、数日たって、水道水の騒動があって、
おそらく相当数の母子が、東京から疎開したはず。
ということで、必然的に単身で残るお父さんが関東にはたくさんいるのでは、
率直にいうと、さみしい。でも、
父さんたち、かんぱれ。
正直、地震以来、言葉を口から出す力が湧かなかった。
正直、地震以来、言葉を口から出す力が湧かなかった。
言葉というか、気力がなかった。
記者会見のUstやネットに張り付いて、ただただ、 少しでも早く、
記者会見のUstやネットに張り付いて、ただただ、
と焦って情報を掻き集めていた。沖縄への逃亡でやっと活気が戻ったけど、
帰ってきたら、また不安が再燃する。
情報過多に疲れもした。
他者を元気づけようとしたり、 または自身ができる支援を模索してる。
素晴らしいと思った。
自分は、ただ困惑していた。今も、まだ。不安だ。
でも、ようやく、ほんの少しだけど、考える余裕が出てきた。
皆を見習おうと思う。
いま絵本を被災地に送ろうと考えてるところ。
それにしても、なんかここ数日、 プルトニウムが検出されたあたりから、
よく分からない『 ちょっと安心してきたよねムード』が漂う。
すごく恐い事だ。
だって、あの原発の処理、会見を聞くところ、見通しが全然たっていない…のに。
自分自身も、こ馴れてきた感があって、実際マズイとオモた。
終息を願う。祈る。
▼ところで友達の皆さんのすてきな救済支援活動をご紹介
Shu-Thang Grafixさん
今谷忠弘(ホテルニュートーキョー)さん
BENICOTOY さん
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